掲載記事

「朋の時間〜母たちの季節〜に関するインタビュー記事が紹介された
「週刊金曜日」
No.461 5月30日号

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「知ってほしい」私たちの人生 〜映画『朋の時間』が問いかけること〜

対談
日浦美智江
西山正啓

(リード)
重度心身障害者の通所施設「朋」の日常を追ったドキュメンタリー映画『朋の時間〜母たちの季節〜』が公開中だ。この施設の理事長である日浦美智江さんと、監督の西山正啓さんに映画への思いを聞いた。

(プロフィール)
ひうら みちえ・社会福祉法人「訪問の家」理事長。「朋」の前施設長。横浜市の「障害者施策推進協議会」会長も務める。著書に『朋はみんなの青春ステージ』(ぶどう社)など。

にしやま まさひろ・映画監督。『しがらきから吹いてくる風』(1990年)、『水からの速達』(1993年)、『梅香里(メヒャンニ)』(2001年)など、幅広い主題のドキュメンタリーに取り組んでいる。

(対談本文)
――日浦さんが「朋」での日常を映画にしたいと思われたきっかけはなんですか。
日浦 心を動かされ、「日記に書いておきたくなること」に、毎日、出会うんです。
 重い障害を持ち、身体的には厳しいけれども、瞬間を生きることを楽しんでいる屈託のない笑顔。それを支えるお母さんの言葉――独り占めするのはもったいない。ヘレン・ケラーは「障害は不便だけれど不幸ではない」と言ってますが、私もそう思います。彼らも私たちと同じようにお日様の下で笑ったり、泣いたりして生きていることを知ってもらいたかったんです。
 また「朋」で何年か過ごし、残念ながら亡くなった何人かの「生きた証」を何とか残したい――という気持ちもありました。

――西山さんはどういう思いで監督を。
西山 撮影には約4年かけましたが、日浦さんとの付き合いは12年になりますから、精神的には12年かけてつくったとも言えます。一口に映画づくりといっても膨大なエネルギーが必要ですが、「機は熟した」という気持ちで撮影を始めました。

「社会の中で」生活させたい

――重度心身障害者の方たちがおかれている現状で一番の問題を挙げてください。みんなあまり知らないと思うのですが……。
日浦 その「知らない」ということが一番大きな問題だと思うんですよ。
 私が最初に彼らと出会ったのは、1972年に横浜市の小学校の中にできた「訪問学級」(注1)です。障害者の人たちも普通に学校に出てきたんですよ。運動会や学習発表会を一緒にやったり‥‥‥教室こそ別でしたけどね。ところが、卒業後に「さあ教育の成果はどこで」となったとき、受け皿はなかった。そこで気がつきました。「ちょっとおかしいよ」と。教育は、子どもたちがいつか社会に出ていくためにある。学校に通う力はあるのに、どうして彼らはその後、社会の中に入っていけないんだろう‥‥‥。
 長い間、重い障害のある人たちは在宅か、入所施設で暮らすか、または長期にわたって病院に入るという選択肢しかなく、社会の「外」で「皆が知らない存在」として生きてきました。
 彼らは病気になりやすく、こじらせると命が危ない。一口に「社会の中で」と言っても簡単ではありません。「医療」と、生活の質をつくる「福祉」が協力して支援しなくてはならない。この医療と福祉の“つなぎ”として従来からあるのが入所施設ですが、やはり親には「(入所ではなく)他の人と同様、社会の中で生活させたい」という願いがある。そこで、「家から通える施設=通所施設」の先駆けとして、「朋」を1986年から始めたんです(注2)。

――「入所ではなく通所」という選択について、西山さんはどうお考えですか。
西山 「入所」とは、病院に入院して、そこで一生暮らすと思えばいい。つまり基本的には隔離・収容だと思っています。日浦さんは「通所は家族の支えがないと不可能」と以前からおっしゃっていますが、「入所」では家族が関わらなくても、施設の中で生活のすべてが完結している。
 やはり、「通所施設」や「グループホーム」(注3)のように、地域の中で小さな単位で暮らす‥‥‥これが、より人間らしい生活だと思うんです。
 日本の福祉政策は、入所施設を造りつつ、一方でグループホームも造ってきた。これらは両極の政策であり、めざす方向性が非常に曖昧だったんです。昨年、宮城県が「脱施設」を宣言し、それをうけて厚生労働省が「これ以上入所施設はつくりません」という方針を打ち出した(注4)。日本の福祉政策にとって画期的なことだと思います。

――これまではどこに入所するかを行政が一方的に決めていましたが、今年4月からの障害者支援費制度(注5)で、本人の意思に基づく契約制度に変わりましたね。
日浦 「表現がゆっくり」で意思が読み取りにくい人を、成年後見制度(注6)などでどうサポートしていくか‥‥‥など、新制度にも課題は残ります。しかし、「本人の気持ちはどうなのか」という発想が当たり前になれば、すばらしいことだと思います。
 西山さんは「入所」と「家族」を対比して話されましたが、「入所=だめ」なのではありません。レスパイト(注7)や、グループホームを補助する機能を考えると、入所施設も専門性を持っていると言えるんです。入所という「住まい方」が選択肢として用意されていること自体は、決して悪いことではないと思います。ただし、西山さんが言うように「完結」しない――つまり入所施設が、地域や家族の存在ときちんと「つながって」いる必要はありますね。

この映画も「反戦」です

――「母たちの季節」というサブタイトルですが、実際はお父さんの存在も大事です。
西山 別に僕の中で父親を排除したわけではないですよ(笑)。今回は「母親に焦点を当てる」ことを選択したんです。家庭の中で圧倒的に密に子どもと向き合い、「朋」において職員と向き合っているのはお母さんです。結果、現状ではお母さんのところにすべての問題が集約されている。
「季節」という言葉には「時間の流れ」の意味を込めています。つらい思いをした時期を経て「朋」と出会い、周囲に支えられてだんだん自信が戻り、元気になり‥‥‥「人は、支えられるとこんなに明るくなる」というところを見てほしい。それが「朋」にとって大事な仕事でもあると思います。

――「朋」で子どもを亡くしたお母さんが、その後も「朋」に通い、ほかのお母さんを相談相手として「支えて」おられますね。
日浦 お母さんたちは悲しみの中から自分の役割を見つけて、「朋」にボランティアに来てくれています。亡くなった自分の子どもと似た体格のお子さんを抱くのはまだつらいけど、体位を交換したり、マッサージをしたり、経験を活かして介護に手を貸してくださっているんです。
 子どもを亡くした後の人生は、本当につらい。でも、そこでお母さんの人生が終わるわけじゃないんです。亡くなった彼がいたからこそできた縁や人間関係を、彼の「遺産」として大事にしていかないと意味がない。「彼と生きられて良かったな」とお母さんに言ってもらえたとき、私たちも「一緒に歩いてきて良かった」と思えるんです。

――映画の公開とほぼ同時期に始まった米国によるイラク攻撃では、多くの子どもたちが犠牲になりました。
西山 以前、『梅香里』(注8)というドキュメンタリーを作りました。テーマは米軍による人権侵害、はっきり言えば殺人です。この映画も『朋の時間』も、命の問題と向き合う人たちを追っているという点で、共通しています。
 僕はイラク攻撃反対のデモにも参加したし、映画も作る。僕にとって「命の問題を考える」という点で根幹は同じなんです。この映画の上映のために努力することは、僕にとっての「反戦運動」でもあります。

日浦 以前、「もし大地震が起きたらどうやって逃げようか」と「朋」の皆で話したとき、あるお母さんが「逃げられない。私はこの子を抱いて、ここに座っている」と言われた。広島や長崎に原爆が落ちたとき、子どもを抱いたまま死んだお母さんもきっといたでしょう。イラクでも同じ光景があったのではないでしょうか。
 西山さんはそんなお母さんたちの「ありのまま」を撮っているので、「このお母さんは、たぶんこういうときはこう言うだろうな」と、長いつき合いで私がわかったつもりになっていたことが、良い意味で打ち砕かれました。彼女たちの子どもへの愛は、私が思うよりもっと深く、厳しいということをあらためて見せられて、私の「想像力の小ささ」を思い知った気がしています。

――映画を見た人の感想はどうですか。
日浦 小倉昌男さん(ヤマト福祉財団理事長、注9)が、「暗い映画だと思っていたら、とても明るい映画でした。生きることは明るいことなんですね」って言ってくださったんです。うれしかったですね。「そこに命がある」ということ。それだけで明るいことなんです。それを皆が忘れてしまっている。映画を観てくれる高校生にも大学生にもお母さんにも、そんなメッセージが伝わればいいなと思います。

西山 「障害児が生まれたらかわいそう」だとか、「つらいでしょう」とか、福祉はいつも、「マイナスの価値観」で語られる。この価値観をプラスに転じていく‥‥‥これが、日浦さんが「朋」でお母さんたちとやっている大きな仕事の一つだと思うんです。僕が映画で意図したところもそこにあります。マイナスの価値観をプラスにできれば、僕ら自身の中にある社会観、福祉観、人間観を変えていくことにつながる。映画は、そのことに一番貢献できるメディアではないかと確信しています。

東京都内にて

司会・まとめ/編集部・小長光哲郎
写真提供/『朋の時間』上映委員会
対談写真撮影/石郷友仁

(囲み記事)
「朋」とは?
 社会福祉法人「訪問の家」が1986年に開設した、神奈川県横浜市にある知的障害者通所更生施設。重い障害を持つ人たちが施設や病院に「入所」するのではなく、生まれ育った家から通い、地域の中で暮らすことができるこのような施設を、一般に「通所施設」と呼ぶ。
「朋」の歴史は約30年前に遡る。1972年、重度心身障害者の教育の場として、横浜市立中村小学校内に「訪問学級」ができた。同市は早い時期から障害者の学校教育を保障し、この「訪問学級」は当時画期的なものだった。
 この訪問学級で指導講師をつとめた日浦美智江さんらが、1979年に設立したのが障害者地域作業所「訪問の家」。地域作業所では、企業等への就労が困難な障害者が、基本的な生活習慣を身につける訓練をしたり、就労意欲を高めるための作業を行なったりする。その後、1985年の「社会福祉法人 訪問の家」の設立認可を経て、1986年の「朋」開設に至った。
 現在、「朋」には約50人の障害者が通う。稲作や野菜づくり、和紙製品「なぎさブランド」の新商品開発(このための話し合いや試作)等々の作業や、ピクニックやクリスマスパーティー、成人式などの行事、近隣の小・中・高校との交流も行なっている。
またこれらの活動や送迎、介助、洗濯、掃除、理容等々について、40人の職員と年間約2600人のボランティアが支えている。


(以下、下段の注部分)
(注1)訪問学級
ここでの意味は、横浜市が1972年に市立小学校内に設置、障害児が一般児童とともに学んだ学級のこと。その後の養護学校義務制度化で、現在「訪問学級」といえば、在宅の子どもや入院などで通学が困難な子どものため養護学校内に設置された学級を指す。

(注2)通所施設
現在では全国に366カ所あり、約13694人が通っている(2001年、厚生労働省の調査)。

(注3)グループホーム
 障害者や高齢者が暮らす施設。旧共同作業所全国連絡会が昨年行なった調査では、グループホームがない市町村は73%。政府は今年から5年間の目標を挙げた「新障害者プラン」で、全国のグループホームの新設目標を7000人分としている。

(注4)脱施設
 政府は今年度から10年間の「障害者基本計画」と「新障害者プラン」で、知的障害者について施設中心の対策を見直し、地域で障害者を支える「脱施設」を打ち出した。(1)入所施設は真に必要なものに限定 (2)施設の小規模化と個室化を図る‥‥‥などをあげている。

(注5)障害者支援費制度
 入所施設や通所施設などのサービス事業者を利用者本人が選んで「契約」、料金は市区町村が「支援費」として事業者に支払う仕組み。

(注6)成年後見制度
 痴呆や知的・精神障害があるなど、判断能力が不十分で、財産管理などの契約や遺産分割などの法律行為を自分で行なうことが困難な人たちを保護し、支援する制度。

(注7)レスパイト
 障害者をもつ親や家族を一時的に一定の期間、介護から解放することを目的とした援助。障害者本人が援助者つきの住宅(セカンドハウス)に滞在する方法や、援助者が家族を訪問し家庭で援助する方法がある。また入所施設へのショートステイも選択肢の一つ。

(注8)梅香里
朝鮮半島中央部にある「梅香里(メヒャンニ)」と呼ばれる漁村が1951年、米空軍の射爆場とされた。村の人々は漁業などの生活手段を奪われ、米軍機によるたび重なる誤射、不発弾の爆発事故に苦しめられ、現在も爆撃訓練は続いている。映画『梅香里』は生活権、生存権をかけて闘う梅香里の住民らの活動を記録している。

(注9)ヤマト福祉財団
 ヤマト運輸(株)が1993年に設立。心身に障害のある大学生への奨学金提供、障害者施設などにおける備品購入などの事業や、小規模共同作業所などの幹部職員の教育研修も行なっている。

(写真キャプ)
坂田佳子さんと息子の国男さん(30歳)。シバザクラが大好きな国男さんは、このあと咲き誇るシバザクラ(左)の上に寝かせてもらい、満面の笑みを浮かべた。

「朋」には施設内に専門医療の機能を備えた診療所がある。この日は患者さんの体調も良く、診療所所長の宍倉啓子さん(右)や施設職員の顔にも思わず笑顔が。

●東京「くにたち市民芸術小ホール」(5月31日)ほか、全国各地で順次公開中。上映日程の詳細は「朋の時間 上映委員会事務局」
TELFAX 03・3397・1914
 http://www.motherbird.net/~tomo_haha

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